2009年6月26日
ワーテルローの戦い
1815年2月26日、エルバ島から脱出したナポレオンはフランスのジュアン湾に上陸し、パリへ進軍した。途中、ネイ元帥やスルト元帥を従え、7,000にふくれ上がった軍隊を率いて3月20日パリに入城し再び皇帝となった。
ナポレオンはイギリス・オランダ連合軍とプロイセン軍がまだ合流しないうちに各個撃破を計画し、12万4,000の兵を率いて連合軍に戦いを挑むべくベルギーへ向かった。兵の士気は高かった。ベルギーに布陣していたのはウェリントン公率いるイギリス・オランダ連合軍の9万5,000とブリュッヒャー元帥率いるプロイセン軍12万であった。
6月16日、リニーの戦いでナポレオンはプロイセン軍と戦い、死傷者1万6,000の損害を与えたが、完全な撃滅はできなかった。ブリュッヒャーは重傷を負い、参謀長のグナイゼナウが代わりにプロイセン軍の指揮を取った。ナポレオンはプロイセン軍が東へ退却したと誤認し、翌朝グルーシー元帥に3万の別働隊を与えてプロイセン軍を追撃させた。ナポレオン自身は7万2,000の兵を率いてブリュッセルを目指したが、ラ・ベル・アリアンスで6万8,000のイギリス・オランダ連合軍と対峙した。
ワーテルローの戦い(布陣図)6月18日、前夜からの雨で地面がぬかるみ、大砲の動きがとれないと判断したナポレオンは、部下の進言を退けて戦闘開始を昼ごろまで延期した。イギリス軍の方針はフランス軍を防ぎつつ時間を稼ぎ、プロイセン軍の来援を待つことだった為、この判断は大きなミスだった。これに代表されるように、この頃のナポレオンの気力と判断力に往年の冴えはなく、参謀総長スルトは不慣れな参謀業務を果たせず、命令は明瞭さを欠いていた。ただし、戦闘開始を延期した理由については、雨のためフランス軍の戦場への到着がそもそも遅れていたので、やむを得なかったとの異論もある。
イギリス軍はワーテルローの南方のモン・サン・ジャンの丘陵の尾根の背後に主力を配し、自軍右翼のウーグモン、中央のラ・エイ・サント、左翼のパペロットの3拠点に比較的強力な前哨部隊を配置。ナポレオンはまず、ウーグモンを攻撃・占拠して、イギリス軍の主力を誘引し、しかる後、戦線の中央を突破しようと企図した。この構想によって、11時30分頃にフランス軍の左翼はウーグモンへの攻撃を開始した。
イギリス軍は防御に徹し、突撃してくるフランス軍に猛射を浴びせた。戦場の要所、ウーグモンをめぐってナポレオンの弟ジェロームの師団は攻撃を繰り返した。しかし、ウーグモンは頑強なつくりの城館だったため、そこに篭るイギリス軍部隊への攻撃は難航を極め、ナポレオンの構想はつまずいてしまう。
ウーグモンの占拠とイギリス軍主力の誘い出しができないままに、13時30分頃から、仏軍中央と右翼の各部隊が攻撃を本格化。この攻撃により、イギリス軍左翼のパペロットは陥落し、指揮官ピクトンの戦死によってイギリス軍は混乱に陥る。状況の打開のために、ウェリントンはポンソンビー将軍率いるスコットランド竜騎兵を中核とする重騎兵2個旅団に突撃を命ずる。このイギリス軍騎兵の戦線中央部への突撃は、フランス軍に強烈な打撃を与えるが、これに対抗して繰り出されたフランス槍騎兵(仏語ランシエ)の猛反撃を受けて潰走する。ポンソンビーも槍騎兵の槍を多数体に受けて壮絶な戦死を遂げるが、この突撃によってイギリス軍の戦線は小康を得た。
『ウィキペディア(Wikipedia)』引用
ワーテルローの戦いの背景について考えました。
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